昭和49年08月26日 朝の御理解
御理解 第3節
「天地金乃神と申す事は、天地の間に氏子おっておかげを知らぬ。神仏の宮寺氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる。この度、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛致す事、氏子在りての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす。」
大変問題の多いい御理解です。けれども問題はおかげを受ける、又はお徳を受ける頂き方受け方をしなければ、どんなに例えここで教学的に頂いても詰まりません。問題は直接おかげを受けられる、直接お徳が受けられると言う頂き方、そう言う受け方をまあせないかん。それから「天地金乃神と申す事は」と言う事はね、天地金乃神様と言うお方は、と言う風に頂かしてもらってね、天地金乃神様と言うお方はこう云うお方だと。
天地の間に氏子おっておかげを受ける、天地の親神様の、言わば天地金乃神様のおかげをまず知ると言う事。神様の、天地の親神様のおかげを頂かなければ私し共は、まあ日々が暮らしていけない、まあ日々だけじゃなく刻々がそうです。そこで天地の親神様のおかげを先ず御徳を分らしてもらう。そこに、神仏の宮寺とか日柄方位ばかり見てと言う所でです、此処が本当に大事な所なんですけどね。
言うならば自分の物でもない物を自分の様に思うたり、天地の中にです、それこそ理屈を付けて日柄良いの、悪いのと言った様な方向違い。全くの思い違い。それが無礼になって巡りの元になるとこう仰っておられてるんですから、是は実に大事な所です。もう私しが一番大事な所はって言うのは此処だと思うんですね。だからです此処の所天地金乃神のおかげを知って、今までの見当違い思い違いと云う物を改めて行く所から。
徳が受けられるのです。例えて言うと願いお願いをして頂くおかげ、本当に願い通りのおかげを頂いたと言うのは何処までもおかげの世界。けれどもね願い以上のおかげを頂く、三代金光様が「神様は何時も願い以上のおかげを下さいます」もういかに金光様がお徳の世界におられたかと言う事が分かりますね。何時も願い以上のおかげを下さる。ね。そこでですここで言うならば、こう云うお徳を受ける事の為に私し共の間違い、見当違い思い違いをです、改めていかなければならない。
そこで私しが思うんですけれどもね、願っておかげを頂くと言う、是は矢張り頂いたのであったり、困ったりすればあまりの信心、又おかげを頂かんなりません。けれども、その願い以上のおかげこそ、願い以上の、おかげを頂ける様な信心とは、どう云う信心かということ。そこでです、私し共日常生活の上に、まあちょっとした問題から大きな問題、色々とです、自分の思い通りにひとっつもならん事が多いです。
自分の気に食わん事があった、自分の思い通りにならなかった。それだけでもイライラしたりモヤモヤしたりがすぐ怒る。又は腹が立ったりする訳です。その度に悲しんだり、腹を立てたりしてる訳です。それはね、私し共が神様の働きを、神様の働きをようく分かっていない。所謂天地の大恩が分かっていないから、天地の親神様の心が分かっていないからね。そこでです、私し共が日々是は普通な時なんですよ。
もう例えば最近はね、もうそのう、真善美のおかげを頂く為にテレビでの掃除の、特別いらして教えてもらうと言うのにです。片付けないお掃除をしない散らかってある。こげな事していっちょん解らんと言うて、自分の心を小さくしたり、自分が所謂イライラモヤモヤしたりする様な事であってはならないね。そう言う場合であってもそれが気に掛からない、自分が片付けて行く自分が綺麗にしていったら良い、ね。それは例えば、ね、綺麗にしとったら散らかした散らばった。
また腹かかんならんけども又おかげで修行が出来ると言う頂き方なんです、所謂此処で言われる成り行きを愈々大切にして行くと言う生き方。自分の思いを一つっも思う様にならんね。言う事を聞かん不合理な事の時代と言う中でね、例えば神様のおかげが欲しいなと思うても今はそう云う訳にはいけんね。辛い思いをしたり又はしてもらわなと思う時に言わなかった。と言うて気に入らん訳ではないけれども不平不足を言う。こう言う事ではね、所謂願い以上のおかげと言う、徳が頂けないと言う事だと思う。
丸まあ私しに私しが頂いておるおかげと言うのはです、もう成り行きそのものをいかに本気で大事にしたかと言う事。なぜ大事にしたか。天地の親神様の思いを解れば解る程、言うなら天地の大恩が解れば解る程、天地の働きそのもの天一ついやぁ言えなかった訳ですね。思い様にならない事、本当にどうしてこう、こうも思う様にならんだろうかと思う手おった、例えば金額金銭の問題だって友人関係だって、ね。こちらは例えば、ね、本当に例えばその日の事を一生懸命思うておるにも係わらず。
向こうは反対が反対に出て来ると言う、裏目の裏目に出て来ると言った様な時でもです、その事をいかに神様の御働きとして受けて行く。そしたら此の頃ではどう言う風になって来るかと言うと、言われる思い以上のおかげが現れて来る様になる、願い以上のおかげを頂かれる様になる。それこそ天気の事までが、私の自由自在になって下さる程しの、おかげを受ける。ですから昨日の合楽。合楽祭り是から合楽祭りと言う、合楽祭じゃないです、合楽「まつり」です、平仮名で合楽祭りね。
お天気の事がお願いしてあった、お取次ぎがすんでから聞いたんですけども、すぐ川崎の方面まではどしゃ降りじゃったそうですね。勿論真っ黒ろう曇っておりましたけれども、吉木と辺りはお湿りにあわれました。形が済んでしもうてからお湿りにあったと云う事。昨日、親先生にお願いをしたと言う、もう本当にそう言う自由、もうそれこそもう合楽なら合楽だけ降らん様にと、合楽だけ降らん様におかげは頂かれるです。
それは私しが神様のおかげを知ってね、氏子天地金乃神様の、天地の間に住みながら、氏子おっておかげを知らず、所謂私はおかげが解って来た、神様のおかげを解って来た、神様の心が解って来た。そこでなら起きて来る事に一遍も、問題でも自分がああしたい、こうしたいと思う様な事でも、それが裏目反対になる様な位でも、裏目反対の所を有り難く頂いて行くと言う生き方をさして頂きよったら、もう一切が願い以上思い以上のおかげが、合楽の上に現れて来る様になるね。
ですから願って頂くおかげは何処までもおかげの世界。願わんなりのおかげを頂くと言う事、それはもうお徳の世界ですね。ならそう言うお徳の世界に住む事こそ、神様の願いなんですね。そのおかげを頂く事こそ、信心しておかげを受けてくれよと言う事は、信心してお徳を受けてくれよと言う事です。もうお徳を受ける時にはいわゆる神様の、言うならば今まで思い違い考え違い。
例えばここにも、ただこう言う例をもって教えておられます様にです。神仏の宮寺氏子の家屋敷みな神の地所と云う事はです、一切合切が神の物だそれを私しは神様の御物として大事にしておる。それを自分の物の様に自分の地所の様に自分の言わば所有権が自分にある様に思うておる様なそう言う、根本的な間違いがね正すと言う事。例えば日柄方位なんかでもそうです。日柄方角日柄ばかり見てと言う様な事はもう、愈々天地の働きに対する見当違いの考え方なんですよね。
だから日柄を言うとか方角を言うとかと言った様な事やらが、どの位天地に対する、ご無礼になっておった、いやそう言うその思い違いこそが、前々のめぐりでと仰る、初めてこ、巡りと言う言葉が出た。私しね、言わばめぐりが深いから、もう天地の言わば、働きに対するご恩恵に対する反対の事ばかりを思うたり、おかげを落としたりと言った様な、やっぱ一番大事な所は此処ですね。
そこで、そこが分かれば解る程です、言なら神様の、私の上に現れて来る神様の働きそのものがです、どうして自分ばかりが、難儀な思いしなければならんだろうかと言うのがです、頂き方が間違うとる。神様がこうして私しを、磨いて下さる、神様はこうしておかげを下さろうとする、力を与えて下さろうとする働きがあると云う様な頂き方こそが、間違いない見当違いじゃない頂き方ですから、私しがおかげを頂くはずです。
成り行きを愈々大事にする。全ての事に「御」の字を付けて御事柄として頂く。本当に神様と云う方はね、例えばそう云うお方と。そう云う頂き方をすると氏子の上にもうこちらは願わんでも先に立っておかげを下さる。助けて下さるのです。例えば今までは不満だと思うておった、御無礼だと思うておった様な事にでもです、所が「御」の字を付けて頂くとです、神様がもう有頂天になる様に喜んで下さるんです。
おかげになり過ぎると言うと可笑しいですけれどもね、だろうと思うんです。おかげがはっきり現れて来るとね。神様がもうそれこそ、有頂天になって、例えばこう云う様な事にまで御の字を付けて頂いてくれる氏子として喜ばれる。私しはその特に天地金乃神と申す事はと云う事にもなる。だから天地からのお恵みと云う事になりますから、天地金乃神様と云うお方はと言うね。
ある人と云う人はこう云う人なんだと、だから天地の心情が分かると言うと、ああするより良い、それを相手の事を貫くから、何時までも神との交流が生まれて来ない、人間関係ではない。神様と言う、神様と言うのは、こう云うお方かと云う事が解ったらです、ね、神様の心が解るのですから、それに沿うて行く生き方と言う事。神様が言うならば、神様がそう云う氏子の上に信用して下さる。
この神様はね、神から信用を受けた者の云う事を聞きゃあもうこの神様は、覚えんごとなっておかげを下さる神様なんです。言うならば、生神金光大神様と、ね、なら天地金乃神様の言うなら大一任を受けられたお方です。ですから、本当に神様の事が解らなくても、金光大神の言われる事に純粋な素直な心で、それを頂いて行く様に、自分を縮め縮めに、しかも、大事にするのですからおかげを頂く。
なら此処での私し達の生神様の御神縁を受けているとします、何か誰か色々云うております、なら、天地が上に成程しのおかげを頂かんと云う事実を皆さんが見たらです、所謂その、先ずは私が天地から、此の程度の事で信用受けて居る事を知らない、だけど神様から好かれている私、神様に信用されている私し。だから、私しの言う事を聞けば、神様が覚えんごとなっておかげを下さる。道理でしょうかね。
「先生は、ああ言いよんなさるばってん」と言うて、「ばってん」を付けるから、おかげにならんのです。そして自分流の、がりゅうの信心を、それこそじだんだ踏んでするけれど、もしそれが願って頂く、おかげでしたら、大したおかげじゃあない。あの世へ持っていけると言ったおかげじゃないね。いわゆる、天地金乃神様と云うお方は、そう云う性格のお方なんです。
そこで、天地の親神様の信用を受けとくとね、心任せになる、所謂、親先生任せになる、ね、是は全ての行く末がです、自分の都合のよか時だけ人間任せになると云う事をします。もう身も心もあなたに任せて、例えばここでです、私しに皆心を任せてくださるならば、私しと同じ様なおかげが絶対頂かれるはずです。天地金乃神様という方はそう云うお方なのだと云う事ね。そんなら、天地の信用を受けた人はどう云う事になっておるかと云うとです、まず第一に神様の大恩が分かっておる事、ね。
天地の間におって、氏子おかげを知らぬね。天地の間に生かして、生かされて生きておる私自身がです、天地の親神様のご恩恵なしにはもう此処一寸動けないんだと云う事が解る。それを思い込んでおる。そして、今まで天と地以外の事を言うたり、思うたりしておった事を、改めて気付かせて貰う所が、神仏の宮寺とか、方角日柄とかと云う言葉で表現されますけれどもね。
例えば、難儀な事が起こって来る、自分だけがこんな難儀をしな、是はもう見当違いな受け方をするから、そう云う日我慢ならん。神様が言うならば、氏子かわゆうて、神愛の現れが、それだと分かった時が、本当の事が解った時ですから、その事に合掌をして、成り行きを、いよいよ大事にしなければおられない、その事が、例え痛い事であろうが痒い事であろうが、合掌して受ける、と云う生き方こそ、是は絶対の間違いのない受け方だと言う事がね。
だから、神様のご信用を受けた人は、そう云う受け方がでけておるんです、必ず。例えば言うなら、甘木の初代なんかの信心を受けてもいいです。それこそ、天地の大恩をこの目で、是程感じ取ったと、受けられた。それを感じておられた事が、他にあるまいと云う位に、やっぱり天地の大恩が分かっておられた。おかげを分かっておられたと云う事になるんです。だからああ云う大徳、ああ云うご比礼が輝くね。
だから、甘木の親先生のその前にはです、枯葉1枚、枯枝1本でも神様の御物として、もうそれこそ押し頂いて、頂かれると云う事になるのです。同時にです、自分と云う者の事が解れば解る程、所謂、無力であると云う自分が解れば解る程、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのですから、神様の言う事を聞くより他にないのだと云う所に、修行を味わっ取られる、私しは、操り人形だと。神様は操りちゅうか、神様が手を上げと言っちゃあ手を上げる。足を上げと言っちゃあ足を上げる。
それを人が例えば文句言うね。悪口を言うても笑うてもです、私しは操り人形。天地の親神様が操る生き方なら、神様が操って下さる通りに動くと言われた所がね。どんなに例えば、なまじ前を見ても、いやな事が起こってもです、それを有難くま、受け止める以外ないと思うんです。
今日はね、そう云う、まあいろいろな事をこう話しましたけれども、まあぁ一つあの、明日はこう大変なる心を開いて欲しいんです、ね。だからあの取次ぎの天地の、天地金乃神様と言う方は、こげにお仕えしたらよかばいと云う事と解って来ます。もうこんなに単純なおかげだと云う事を解って貰いたい。もう出来る単純な方です、ね。ならさっちど大坪総一朗の言う事とさえ聞きゃもうそれこそ、こうたっておかげを下さる神様なんです。肝心ですもん。
此処では私し心任せになる稽古が、もう神様がもう本当に喜んでお陰下さる。其れもなら、私し那加に申しました、それぞれの事柄の大事な内容を内容としなければ、それが、そう云う単純に受けられないね。例えば合楽教会の仲原さんが、バセドーと云う所謂喉がむくんで、そして目の玉が飛び出ると言う様な恐ろしい病気。もう愈々それに発展したと言う言う様な、その病気を持っておられたけれども、御神縁頂く様になってから、その頃からもう声が出らん様になった。
その事をお届けしなさる時に「もう声が、声が出らんと云う事をおかげだよ。もの言わんでから、私しに取っては何気なくそう言うた所が、「親先生が物の出らん事がおかげと言わっしゃった」と言うて、有難く。最初にお届けに来た時は医者に行かんとどうとかこう言われるけれども親先生が言う、言うならば物の出らん事がおかげと言いなさったから、と言うてもうおかげとして頂く。もう最近ではどっぷり、合楽示現活動に一生懸命ですから、その喉の痛かった事も声が出らない事も忘れてしもうて。
一生懸命お話がでける自分に最近ここ二、三日気づかして頂いた。もう忘れてしもうたと云う程しにおかげを頂いた。実にこの神様は単純なんですよ言うなら。天地金乃神と天地金乃神様と申す事は、天地金乃神と云うお方は「大坪総一郎の言う事さえ聞いておれば、すぐおかげば下さる神様だ」と頂いてもいいんです。合楽の人達はね昨日十何年間のリウマチで体がもうこうこうなってね。長い間ずっと治療生活をしておられる事をもうどの様に聞かして貰いたい一心で、ご夫婦を福岡の池田さんがお導きするのです。
そしてお取次ぎさせて頂いた時も、心でね「もう私し達が良うなる事はなか」こう云う様な、その感じ方しとらんなさらんからです、それであそこで御理解頂をいておっても、御理解はもうとおうくに聞かんならん、他の人は一生懸命頂いておるのに、他の人のごと聞きよる。駄目と言う諦め取る「もう十何年もリウマチで体がこうしてよごむ事なっとるのに良うなる事なか」とこう思うておる。
だからそげな事でっちゃあ、おかげは頂かれん。頼む気にならないけん、願う気にならないけん、そしておかげを受け、心を作らないけんと云う物が、今までの合楽の生き方でしたね。所が今の合楽ではそんな事ないです。その事をまた改めて、神様に本当にこげな事では、こげな考え、こんな事ではおかげを頂かれない、と言うて此処で改めてお届けさして頂いたら、神様からね、どげん疑うて掛かっても、願う気持ちさえあればおかげになると仰った。今の合楽は。疑うて掛かったっちゃぁです。
自分なとても良うなりゃぁ切るまいと思うておったっちゃぁですね。例えば言うなら私しのお取次ぎを願う気持ちになりゃおかげになる。天地金乃神様と云う方はそう云うお方ですそこん所を此処ではね「願う氏子におかげを授け」と仰るでもそれが本当なんです。本当言うたら自分がおかげを頂ききらんから、分からせなければ今までおかげを頂けなかったと言うのが合楽、此処二十五年の信心です。だから分からんでです、願う気になるはずがない。やっぱりそれはもう、お互いおかげの世界に住むだけです。
お徳の世界に住む事が神様の願いであり、また私し共もです、折角信心さして貰うならば、お徳の世界に住む。いわゆる、願い以上のおかげを頂けれる様な信心を頂きたい。今の合楽は、その御教えの文字通り、それこそ願う氏子におかげを授ける。今合楽で成り行き、本当に様々な奇跡が起こっておる。是なんかはもう願わん氏子におかげは授けないね。そしておかげを頂いてお話を頂いて行く内にです、いわゆる理解申して聞かせて行きよったら、向こうに向かう腹が出来けて来るからです。
いわゆる理解申して聞かせて、おかげの世界からお徳の世界へ、移動して行く教導をさせて頂くのが、まあ私しと云う風に私しは思うです。先ずはだから、おかげを授ける事が先である。そう云う様なね、お徳を受けてこそ初めて親神様ね。「末々まで繁盛いたす事、氏子ありての神神ありの氏子、上下、氏子上下立つ様に致す」と言う様な、結構なおかげを受ける事が出来る。そこに所謂神も助かり氏子も立ち行くと言う、所謂合楽の大坪総一郎と言う氏子がおってくれたおかげで、神も助かりと。
大坪総一郎の取次ぎを頂いて助かる、氏子がだんだん助かって行くとね。上下立つ様に致すと。又、お互いの信心もです、末々まで繁盛いたす事、と云う事はお徳を受けなければ繁盛いたしませんよ、おかげの世界だけでは絶対、末々なんか繁盛致しません。末々親の代よりも子の代で繁盛するおかげを頂くと言う事は、お徳を受けなければ繁盛させられない、ね。だから、そう言うお徳を受けた人との上にです、神様と私し共との、そう云う徳を受ける、神様のご信用を受けた人の上にで、ね。
神ありての氏ね氏子ありての神、神ありての氏子、と云う事になるんです。だからね例えばあのお徳の力を受けられないのでは幾ら何百何千おったってです、神様が頼りに下さるはずがない。力がないね。氏子ありての神、神ありての氏子と頼みなさるはずがない。私し共の信心によって力を受けた時に初めてです、神様がその氏子に頼りなさる。お前がおってくれて、と云う事になる。もう本当に神様のおかげと言う、神と氏子とが言うならば、合楽の姿になる、拝み合う世界になるね。
そこからね、いわゆる、上下立つ様に、様なおかげに展開する、そこで、ならただいま合楽で言われておる、合楽示現活動と云う事にです、いかに神様が合楽のこの、ここまでのおかげを頂くまでの二十五年間と云う間を、もうそれこそ、待ち望んでおられたと云う事が分かる。
二十五年の間にです、言うならば、人に伝えるとか、お導きをしようとか、言うならば、金光教の信心をすると言った様な事は、それこそ、一言も言うて来なかったと云う事がです、合楽の流儀の様に思うておったけれども、さあ、一度此処に二十五年の、言うなら、間に、おかげを受け、言うならばね、此処に光が蓄えられる。そこで、この蓄えられた光をです、それこそ願う氏子におかげを授け、と言う事になって来るね。
私しは昨日の、合楽、初めて合楽祭りと云うのを仕えましたけれども、丸少が中心にする事でも、やはり信徒会が中心で、まあその、是からの合楽祭りと云う事にならなければならんと思う。それはね、お賽銭と言った様な意味じゃありませんね。久留米当たりに行っても、下駄祭りなんてのがあるんです、元の下駄の。そう言う様に、そう言う様な物でも廻っておる。
是はね、何となく大宣伝と云うても、大廉売と云うても、大売出しと言うたり。そう言う合楽の言うなら、信者氏子がおかげを受けて、ね。言うならば、極楽の世界に住まわしてもろうて、そうしてその極楽に住廻っておるだけではない、もう一つ向こうにある合楽に到達さしてもろうて、それこそ、神様も助かって下さる、自分も立ち行くと言う、是が合楽次元。神様の働きを、話して現して行くと言う働き。
言うならば、おかげの、大廉売になるです。大安売り言わばもう大安売りして、こう、どうでもこうでも買うて貰わなければ、もういけない時期に立ち到っておると云う事。この事ね。感謝に感謝をして喜ぶね、神も喜ぶと言うのは又氏子も喜びと。なぜ機関と云う事を言われるかと言うとです、今の人間の言うならば、所謂もう踏ん付かれ様としておる潰され潰れん。それでまた同じ観点で、それは神に罪であり危険な人。
もう氏子の身にも、地球上にも危機が迫っておるんだと、神様は、この災いが解っているんだと、そう云う大事な、それ位のある、今まで、あるところからです、神様が喜んで下さる、私し共も助かって行けれる道をです、いよいよ、人に伝えて行かなければならない。そう云う例えば、事のために、二十五年間、合楽が今までの道を走って来たと云う事も言える訳ですね。
ですから、もう猫も杓子も兎に角合楽のおかげの成就と云うか、もうそれこそその背中を見たら合楽の所謂、示現活動をさして貰わなければいけないと言われている、ね。そこに初めて、氏子上下立つ様になる形になって来る。付近方面にですね、付近での人間がです、そう云う生き方のもん達は、それこそ生き残る人々としておかげを受けれる、それを、本当に多くの氏子に生き残って貰いたい。
それこそ、神様と氏子とが喜び合える様な合楽の世界が造りたいね。そう云う神様の願いに答えて、おかげを頂いて行くと云う事がです、今の合楽の、合楽示現活動に、ためさして下さると云う様な皆さんの願いを、私しがさせして頂く訳であります。天地金乃神様は今申します様に、例えば、私しの言う事を聞きゃあもう、覚えん様になっておかげを下さる程しの単純なおかげ。かと言うてです、最後の所になって参りますと、何処まで深いか。そりゃいかん。それを信用したらまた、それこそ限りがないね。
二十何年前です、御理解の中に「波紋広げて自分を苦しめ、又投げぬ、巡りの里を知らぬ人の心に」と言う様な、此処に書いてあるんです、ね。私しが一石を投じて来た。それが、此の様な、言うならば私しの事を悪口を言うたり、当時のその言うならもう、本当にその虐げな事にでもそれの波紋が広がって行く。広がって行く事は解っておるけれども、当時としては言わずにはおられなかった。その当時の私しが。
結局、悪口を言ってた人達の場合はです、言うなら自分自身の巡りの深さを知らない人。「本当に今そげなこっちゃおかげを頂かんよ」と、と言うてあの時親先生がおどしなさった。脅しなさるのも罪はない。そんな事出来んと言うてもう出て言ってしもてしまった。そして結局は、あわれおかげを落としてしまうと云う人達が多かった。相手とあたしが、言う事とする事聞いて下さったとまあ言うならばです。
高滝あたりでも生かせじゃった者が皆そうだった、それよりもむしろ本人でも波紋になって広がって行く。そう云う時代から、色々の事おかげを受けれてる。私しはよりそれこそ波紋を広げて縮み行く道をまた目で見る、神の心の知らぬ人の心にと言う風に感じるね。皆さんが合楽示現活動に一生懸命されてる。所謂跳ね返って来る様な人もある「あたしゃ金光様の使いなど」と言う人もあるね。
いいやあたしゃ信心なせんと云う様な人もある、所謂そのそれでも神様の思いを解らないからそうなんです。そこで神様の願いを分からせる為に、一辺二辺跳ね返されてもです、やっぱりそれを所謂生まず弛まず位。神様の思いを分からせて、助かって下され助かって下さいと云う願いを持って、お話しをして行かなければならない。言うならば、示現活動にをしておかなければいけないと云う事になりますね。
今そう云う時代です、今日は「天地金乃神と申す事は」と云う事だけに実は焦点を置いた。だからおかげを受けると云う事は実に端的。此の神様はそう言う肝心な事で、例えば私しが冗談に言うた事でも、ね、そう言う冗談も所謂物も出らんごつなってても、おかげは要ると言わっしゃったからです。それがおかげが通じて、例えば医者も要らん、薬も要らんと言う時ねなって、自分達の身になって来たらです。
さしもの病気が自分でも、今はあきれる程しのである、お話も勿論受けるよと云う事です。皆さんはね。だからそう云う天地金乃神様の性格はそう言うお方だと言う事知る事。完全なお方だと。かと言うて、言うなら天地親神様にも此処にもおると云うか、そこと云うのは、例えばこう云うふうに立ち行く。神様が言うならば、神も助かり氏子も助かり立ち行く、そう言うおかげを願っておられると言う事の、言うならば。
意味合いと云う物は、それは深い深い、広い広い、もう私し共では考え付かない程し。だから先ず肝心な所から入って、天地の神様の言うならお心を、言うならば助けたいと言う、おかげを頂くと云う以外にない。そして愈々信心を分らして頂くと言う所に、致すと言うならば本当に合楽を現して行けれる、と言う様な理念として現れて来た時に、所謂神様にご信用頂くと言う事の上においては。
是は私し共が分かっても分かっても、まぁだ解らん事ばっかりが本当は天地の親神様のお心なんです。言うなら私し達がそんな事言うて、何もかも解っておるかと言うと、実を言うたら、まあだ、まあだ神様のお心の深さと言うのはもうそれこそ、もう本当に分からない事の方がどの位多いか解らん。だから私し達が一生掛かってでも極めて行く。言うならいや一生ではない。あの世にもやって行ってでも。
其れを愈々極めに極めて行かなければならない程しの物なんです。金光様の信心はだから、もうの頃は神様が分からんごとなった夫婦。おかげ頂かんね。「その神様が、あんたらに解るだけの神様なら、もう大した事なか」と私はこう。もうどれだけ極めても極めても、実を言うたら解らない、けど、それだからこそ、すぐに信心に、また飛躍をして行く事が出来る。
そう云う、もうそれこそデリケートと言うて、難しかと言うて、そういう内容を持っておられる天地金乃神様である。けれども、そんなら、私し共も、子供の様に単純にですね。ですけど、もうそれこそ、神様が拝むごとなっておかげを下さる神様。もうそれこそ目を細めて下さる、孫におやつやる様なもんです。天地金乃神と申す事はと言う事は、そう云う、信心生活、そう云う神徳、誠意を神に備えておられる神様を、天地金乃神様と申すのです。
(ここでテープが切れている)